1月11日、姉から連絡が入り、じいちゃんが突然亡くなったことを知った。
享年87歳。
僕は「遂に来たか〜(その時が)」と思った。
数ヶ月前に、姉が電話で言っていた。
「じいちゃん、いつ死んでもおかしくないかもよ〜」
さすが、20年の看護師歴は伊達じゃない。。
それを聞いてたから僕も、「3月くらいに顔見せに行こうかなぁ〜」と思ってた矢先の出来事だった。
僕自身、ヨガと生活を共にして約12年。
「死」については色々考えてきた。
僕は周りと比べて少し(いや、かなり)変わっているので、若い頃から「生死」について考えたりする事が好きである。
実際、「生きるということは死ぬ準備である」とも思うし、「良い死」には、「良い生だったか?」が必ず関わってくると思っている。
死に際に、いい走馬灯を見たければ、いい生き方をしたかが必須だし、
死を考えることは、生を考えることになる。
ヨガの聖典『バガヴァッド・ギーター』では「死」についてこう書かれている。
「肉体は滅びても、
その人の本質が滅びることはない。」
「古い肉体を脱ぎ捨て、
また別の新しい肉体を得る。」
前世とか、過去世、来世とかいう言葉があるけど、この言葉って、そもそも「人は生まれ変わる」という概念があるからこそ通じる言葉なんだよね。
魂と言うものが存在していて、それが肉体に宿っている。そしてその肉体が死ぬと、魂が輪廻転生し、また新たな肉体を持って生まれ変わる。
多くの日本人には、なぜかそういった思想が定着してると思うんだけど、それには僕も共感するし、ヨガ哲学もそういう考えだから、信頼してヨガを選んでいる。
「死」はネガティブではない。
少なくとも僕はそう思っている。
だからといってポジティブでもない。
「AかBか、一体どちらなのか?」と、答えにこだわる人は、自分で考えない人の典型だと思う。
「死」をネガティブにしてしまうと、「生」は反対にポジティブになってしまう。「生きていることが良いことだ」なんて誰が決めるのか。じゃあ、「死ぬことはダメなのか?良くないことなのか?」
答えは人の数だけある。偏りは良くない。
、、、話が逸れたので戻す(笑)
訃報が届いた翌日の朝、地元に戻った。
(急遽、レッスンを引き受けて下さった先生方には感謝しかない。)
空港には、親父と姉が迎えにきてくれた。
そのまま3人でじいちゃんちに行った。
亡くなってるとは思えない、ただ寝ているだけのようなじいちゃんがいた。
鼻の頭はほんのり赤く、血色のいい顔。
黒々とした眉毛は相変わらずで、今にも目を覚まして「おぉ、ま〜くん帰ったか」と言いそうだった。
婆ちゃんは、なんと言うか、静かだった。
「死はネガティブではない」と、ホントにそう思ってはいるけど、やっぱり、身近な人が亡くなるのは寂しいし、心が抑揚して、込み上げてくるものがあった。
思えば、いつも笑顔のじいちゃんだった。
どの記憶を探っても本当に笑顔しか思い出せない。
怒られたことは1度もないし、なんならいつでも味方になってくれたじいちゃんだった。
お通夜の読経の時は、1番前の列だった。
目の前に横たわるじいちゃん。
涙が出る出ないはどっちでも良かったんだけど、頭の中で、じいちゃんの声とクシャっとした笑った顔で「わしのために泣いてくれるなや」と、何度も脳内再生されてたから、僕は泣かずにお別れした。(心の中では泣いてたけど。)
あと、1番顔を見せない孫でごめんねと謝っておいた。笑
じいちゃんの子供が僕の父を含めて3人。そこから孫(僕ら)の世代が全部で8人。その世代ももういい年なので結婚して家庭があったり、子供が小学生とかになってて、ひ孫の世代が更に8人(お腹の中にもう1人)っていう大所帯。
これらが全員集まる機会なんて絶対ないから、久しぶりに集まれて、本当に良い時間だったと思う。僕も帰れてよかった。
人が亡くなるときは突然やってくる。
どうせ死ぬ時がくるなら、理想はやっぱり、年の順がいいなと思った。
通夜や葬儀を目の当たりにして、自分よりも下の世代を見送らなきゃいけないってのは、相当な苦痛と悲しみがあるだろうから。
寿命や天命があるとすれば、それをきちんと全う出来るように、肉体の健康は大切にしないといけないね。
この投稿を残すことで、いつでも今回のことと、じいちゃんのことを思い出せるようにしておこう。
そして自分も臨終のときには、じいちゃんみたく、来た人皆んなが号泣してくれるような人柄になれるよう努力していこう。
お葬式って、ちゃんと悲しめたり、離れてた近親者が集まれたり、故人を思う時間が取れたり、きちんとお別れが出来たりと、とても良いものだな〜と思いました。
めちゃくちゃお金かかるけどね!(笑)
じいちゃん、心配せず成仏してくれ!!
そんで、来世も僕のじいちゃんになってくれ!!笑
という僕のひとりごと。笑
マサルシ