マサルシ 男のヨガブログ

パッとしない普通のサラリーマンだった男がヨガをしたら人生面白いことになりました。

人を雑に扱う人

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「自分が1番偉くなったような気になる」ことって、人生の中で「時々ある」よなぁと思う37歳の僕。

 

もちろん、そんな事を思ったことがないという人もいるだろうけど、僕は「偉くなったような気になったことがある」経験者だ。(今ではそれらを全て反省しているが。笑)

 

今日、「なぜ人は人を雑に扱うのか。扱われたらどうすべきか」という、とある作家さんの日記が目に入った。

 

そういう人は、必ずいる。

 

ぞんざいに扱う人もいるし、

ぞんざいに扱われる人もいる。必ず。

 

その人の日記の中にも、

「自分が一番偉いと思っている人間があまりに多い」

と綴っている。

 

プライドを持つことは重要なことだが、プライドを持ち過ぎると様々なバランスが崩れるという事だろう。

 

その作家さんは現在61歳。

日記にはこう続く。

 

「ぼくのような還暦の人間でも雑な扱いを受けるのだから、若い人たちはもっとあるに違いない。」

 

「ないがしろにされ、舐められ、ぞんざいに扱われたなら、やるべきことはただ一つ。自身のプライドの名のもとに、その人間を意識の中から消去することだ。」

 

「まともに向き合っていくとこっちが壊れるので、即座にバリアを発動して、消すのだ。」

 

「このくらいのバリアを常に張り巡らしておかないと今のような時代は生きて行くのが大変だ。」

 

「自分を守れるのは自分しか居ないのだから、綺麗事は一度捨ててしまえ。雑に扱う人間に対抗できない立場にいるならばそこを去る。去れないならば、とりあえず視界から消す。自分を尊重してくれる人間のところへいずれ移ってやるぞ、と思い続ける。強くなるとはそういうことだと思う。」

 

と、まぁいろいろ書いているが、皆さんはどう思うだろう。

 

ここでいう「綺麗事」というのは、僕で言うところの「ヨガ哲学」なんだよなぁと思う。

 

ヨガ哲学を捨てることは出来ない(したくない)から、ぞんざいに扱われたときは「自分を守りたい気持ち」と「ヨガ哲学」の間で揺れるだろう。

 

ヨガ哲学や仏教って、たとえ傷付けられても傷つけ返さない精神?みたいなものがあって、それを美徳、有徳としている感じ。

その精神が大切なのもよく分かる。けど、実際に傷つけられたら、自分が壊れていく(壊されていく)実感を感じながらも耐えるのか?体調不良や精神不良になる自分を知りながら、耐えるものなのか?いや、そもそもこれは耐える意味があるものなのか?というのがテーマになる。

 

今書きながら思うのは、やっぱり「耐える意味がある苦行」と、「耐える意味のない苦行」に分かれる。というのが僕の見解だ。

 

「耐える意味がある苦行」の先に待っているのは「進歩」で、

「耐える意味がない苦行」の先に待っているのは「自壊」だろう。

 

本当に世の中の二元性というものは、見事に法則を形成している。

 

多くのことは時間が解決してくれることはわかっているが、その渦中にいる時は1番つらいものだ。

 

僕は、この作家さんの意見には概ね賛成だが、出来ればヨガ哲学を参考に、自分が感情のモンスターにならないコントロールをしながら物事を進めていきたいものである。

 

「ぞんざいに扱われた!」と思った時は、早々に去るのもいいし、美徳に耐えるのもいいが、進歩に繋がらない耐久は自壊になるだけだから、それよりも、一度きりの人生。もっとワクワクするような生き方をしていきたい。

明日が来るのがつらい日々より、明日が来るのが楽しみな日々を過ごしたい。

 

人間にはみんな、選択に自由が与えられている。

 

人の気持ちが分からない人の近くには、居ない方がいい。言わないと分からないなら、そもそも相性が合っていないし、これからも言わないと分からないだろう。

 

もっとも、いつか分かる人になるかもしれないという可能性だけは少し残っているが。

 

 

という僕の思い込み。