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心というものは常に同じレベルで機能することはできない。高いときもあるし、低いときもある。
by インテグラル・ヨーガ
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ヨガは何のためにやっているか?
悟るためである。
何を悟るのか?
私を。
私以外の存在を。
自然界を。
宇宙全体の摂理を、悟るのである。
でも、、、
「そう簡単に悟れないよね〜」
という現実があるのだ。笑
ヨガをする皆さま、こんにちは。
マサルシです。
インテグラル・ヨーガの98ページには、こんな言葉があります。
『獲得した地歩(ちほ)からの滑落』
さて、どういう意味なのでしょう。
この言葉の意味は、
自分が努力して獲得してきた「地位」や「立場」から、滑り落ちてしまうこと。
という意味です。
一般の社会生活においては、そんな滑落するような場面に遭遇することは、誰かに「倍返しだ!」と報復でもされない限り、なかなか無いと思うのですが、(ネタが古い)
ヨガなど、自分の霊的進歩を目指す道の中では『よくあること』と記されています。
例えば、新入社員の状態から2〜3年経つと、当たり前のように仕事が板につき、仕事に対する経験と知識が結びつき、5〜6年経つ頃には役職なども与えられているかもしれません。
この様に、私たちは「普通」に生きているだけで『地歩を獲得していく』ことが出来るし、
基本的にこの『獲得した地歩』は失われないのです。
ですが、自分を「ヨガ的」に成長させていこうとする道の中では、何度か「これ」を経験することになります。
「非暴力的でいよう!」としていた矢先に、誰かを傷つけたり、
「正直に徹しよう!」と思っていた矢先に、微妙なウソをついてしまったり、
「よし、ヨガに週3で通うぞ!」と言ったそばから2週間休んだり(笑)
と、いろいろ書きましたが、
( これらはそもそも『獲得もしていない』ので『滑落』もない状態とも言えますが。。笑)
問題は、ある程度ヨガの修練を続けていて、基礎的なアサナやヨガの心得が「体得できた!」と思っているときに起こる『滑落』なのです。
「体得が出来てきたぞ!」という思いが自分の心の中に発生していた分、『滑落した時の落胆が大きい』のです。
今回のブログネタを「コレにしよう」と思ったのは、僕もまさに『獲得した地歩からの滑落』に似たような経験があるからです。
『滑落した瞬間』は、スートラに上記の言葉があったことなど思い出しもせず、『不安感』や『喪失感』に心が侵され、『イラ立ち』『倦怠感』までもが自分の中に沸き起こってくるのを感じました。
その状態であることを、自分でも「客観的に分析は出来る」のですが、なかなかその状態から抜け出せないのです。
このブログを見てくれてる人は、ヨガをしている人が多いと思いますが、「あれは『滑落』だったのかも」と言える経験、皆さんには無かったでしょうか?
僕は『滑落』した経験を踏まえた上で、
これだけは言えると思います。
そうなったのは、
『誰のせいでもない』のです。
あなたのせいでも無いし、あなたの周りの人のせいでも無いのです。
それは、(あなたの) 心の状態が変化しただけ。
それを、心と一緒に「私自身も落ちてしまった」かのごとく受け取ってしまい、悲しくなるのです。
『心というものは常に同じレベルで機能することはできない。高いときもあるし、低いときもある。』
正にそれです。
そんな自分に失望することはないし、
やる気まで無くすことはありません。
『進歩がいつも着実になされているのだったら、そこにはチャレンジもないし、面白味もない。』と続くこの部分 (99ページ)
この「心の散動」、いわゆるチッタ・ヴリッティが進歩の障害となっているだけなのです。
まぁ、それが分かったからといって、おいそれと手離せるわけではないのが人間なのですが(笑)
なかなかその状態を手離せなくても良いし、
そんな自分を可愛く思いながら、ちょっとずつ、手離していこうと努力してみましょう。
健闘してみましょう。
陰があるから陽もある。
それほどまでに心を含むプラクリティは転変しているということです。
少しずつ、回復していきましょう。
『滑落した』ということは、確実に『登っていた』ということなのですから。
という僕の思い込み。笑