マサルシ 男のヨガブログ

パッとしない普通のサラリーマンだった男がヨガをしたら人生面白いことになりました。

老人と海は人生そのもの

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ヘミングウェイ老人と海』の文学に触れる機会があったので、今日はそれをヨガ的に考察していく。

 

めちゃくちゃ有名な作品なんだけど、僕は今まで本を読む習慣が無かったし、ヨガの本しか興味がなかったから『老人と海』は知らなかったんだけど、この文学はマジで人生そのものだった。

 

(全部を読んだわけじゃないから、掻い摘んだ浅知恵で申し訳ないんだけど。)

 

簡単に話を要約すると、

 

老人が1人海に出て、巨大なカジキと戦う話。

 

それだけ聞くと「どこが人生やねん」ってなるけど、ここから僕の言葉で説明していこう。

 

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⬛︎漁師である老人には、弟子にあたる男の子《マノーリン》(老人を慕っている)がいたんだけど、長い間(84日間)不漁が続いていて、それでマノーリンの両親は「別の漁師のところで学びなさい」ってことでマノーリンを老人から離す。

1人になった老人は、いつものように漁に出てつぶやく。『Everyday is a new day. 毎日が新しい1日なんだ。

そう。変わらないように見える毎日も実は違う。《昨日と同じような1日》はあっても、本当は違っている。

いつものように老人が釣り糸を垂らしていると、そこに突然 5.5メートルもある巨大なカジキが食いつく!

 

老人には母なる海への尊敬、敬愛の想いがある。海からの恵みである魚は自分と何ら変わりない世界に暮らす兄弟のような存在。陸で生きているのか、空で生きているのか、海の中で生きているのか。同じ生き物。たったそれだけの違い。そしてそんな兄弟たちを殺すことで生きている自分。殺す権利はあるのか。どのようにその権利を行使するのか。など、深読みするとそんなことまで考えさせられる。感謝することはいつも大事。

もちろんこのカジキに対しても同じ尊敬の念を持って対峙する老人。しかし負けるわけにもいかない。世界は突如として試練を与えてくるもの。言葉や頭で考えると鈍る直感。反応のままに身を任せて、よぎる雑念を振り払いながら老人は《3日間》にも渡る死闘を繰り広げる!(3日間って壮絶すぎる。)

小さな船に老人が1人きり。暴れる巨大なカジキ。体力もない。助けてくれる人も居ない。道具も不十分。勝ち目はないのではないかと、心が何度も折れそうになる。しかし老人は「今はないものについて考えるときではない。」「Think of what you can do with that there is. 今あるもので、何ができるかを考えるときである。」と奮闘する。

But man is not made for defeat. 人間は、負けるように造られてはいないんだ。

竿を握る手が赤く腫れ、ボロボロになりながらも、最後は持っていたモリでカジキの心臓をひと付き。その心臓に触れる。遂に老人は巨大なカジキに勝利したのだった。

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何気ない日常に、突然試練ってやってくるものです。望んでもないのにね。でもそれに負けないように自分を見つめる。やってくる試練に負けるんじゃない。自分の心に負けないようにする。それってヨガ哲学そのものですよね。

でもね、僕がこの『老人と海』についてブログに書こうと思ったのはこれだけじゃない。実は、ここまではまだ序章なんだ。ある意味ここからが本編。

 

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⬛︎老人は死闘の末に、乗ってきた船と同じか、それ以上もあろうかというカジキを(神に懺悔をしてから)船にくくりつけて港を目指していた。

疲労困ぱい。その言葉に尽きる。

時刻は夜になっていた。暗く広い海原。老人はその波間にあるもの見た。サメだ。船にくくりつけているカジキから流れる鮮血に誘き寄せられ、1匹のサメが老人の船に近づいてくる。

老人は再びモリを握りしめ、負けるもんかと身を構える。近くまで来ないと見えないサメの姿。サメがカジキに食いつく!老人は力いっぱいモリを振り上げる!今度はサメとの死闘である。

老人は遂にサメの脳天にモリを突き刺した。サメは力なく海の底に沈んでいった。しかし、沈んでいったのはサメだけではなく、突き刺さったモリも共に沈んでしまった。カジキは4分の1が食べられていた。

帰港を目指す老人と船。一難去ってまた一難。カジキの鮮血が更に2匹のサメを誘き寄せたのだった。(つらすぎる。)

老人はオールの棒に持っていたナイフをくくりつけ即席のモリを作る。今あるもので、最善を尽くす。今の自分に何ができるかを考える。そしてカジキに群がる2匹のサメを、あるだけの道具、残された体力と気力を使って、なんとか撃退することに成功する。両手は既に使い物にならない。(壮絶。)

ここからも更なる試練が重なるが、なんとか帰港を果たす。しかしカジキは全ての肉を食べられてしまい頭と骨を残すのみになっていた。。老人はマノーリンに申し訳なく、情けない気持ちを抱えたまま家に帰り、深い深い眠りにつく。(泣ける。)

翌朝、漁村の人たちは、老人のものであろう小舟に括り付けられたカジキの亡骸を見て、全てを察する。どれだけの闘いがあったのか、それを生業としている人には分かるその亡骸。マノーリンは寝ている老人の隣に座る。老人の、赤く腫れ、ボロボロになった両手を見て涙が止まらないのであった。

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ふぅ。僕の語彙力ではここまでが限界なんだけど、もうね、人生哲学ですこれ。無事に持ち帰れば当面は遊んで暮らせるであろう巨大なカジキ。マノーリンの為にも老人はこれを持ち帰ろうと思ったんだけど、願い叶わず亡骸だけになってしまう現実。でも、マノーリンにはちゃんと希望を与えている老人。形はなくとも、ちゃんと伝わっていると教えてくれている。

 

この後、観光客の女性がそのカジキの亡骸を見て「あれは何?あぁ、サメってあんな立派な尾があったのね、知らなかったわ。」って、素っ頓狂なセリフがあるんだけど、エッジが効いてて、ここも好きなところだなぁ。笑

 

老人と海

知らなかったけど、こんなに素晴らしい作品だったんですね。文学って深いなぁ。自分もまだまだ頑張ろうと思える機会になりました。

皆さんにもこの気持ちがシェア出来れば嬉しいです。

 

 

という僕の勝手な思い込み。

マサル