マサルシ 男のヨガブログ

パッとしない普通のサラリーマンだった男がヨガをしたら人生面白いことになりました。

自分探しの旅

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今日、頭の中に湧いて出たことについて書こうと思う。

 

「頭の中に湧いて出る」というのは日常で結構あって、それは一種のヒラメキような感覚で、時と場所を選ばず「あぁ、そういうことか。」という内容の感覚が突如となく降ってくる。自分は頭を洗ってる時によくこの「お告げ」がくる(と書くと変な人と思われるだろうが。笑)これを察知する感覚を育てていけるのもヨガの恩恵であろう。

 

今日、感じたのは「自分探し」について。

 

ヨガを勉強していると、毎回行き着く答えがある。それは、「ヨガって結局、自分を習うことに尽きるんだよなぁ」ということ。

 

そう、どこまでいっても、ヨガは「自分自身を理解していく作業」なのだ。『永遠の自己探求』と言ってもいいのかもしれない。そう言うと、これを書いている私はパラマハンサ・ヨガナンダの生まれ変わりなのではないかと思う。(ヨガ業界に消されてしまうからやめよう。笑)

 

 

話を戻すが、生きていると気付くことがある。

 

「あ、今の自分って、いろんなことを我慢しているな。」

 

「周りの人にどう思われるかを気にし過ぎているな。」

 

「他人からの評価に振り回されているな。」

 

もしくは、

 

「自分で自分をがんじがらめにしているな。」

 

「自分はこうでなきゃいけないと決めつけてるな。」

 

などなど。

 

 

それに気づいた時、私たちは「自分は、いったい何がしたいんだろう?」「どうなりたいんだろう?」「こんな人生で良いのだろうか?」とモヤモヤ考え始める。

 

そしてそこから始まる「自分探し」。

 

他人軸で生きていると幸せを見失い、

自分軸で生きていると幸せでいられる。

 

というのは、心理学や哲学に興味がある人ならば聞いたことがあるだろう。「だったら自分軸で生きたい!」と思ったとしても、その「自分が何者なのか」を知らなければ「軸」も生まれないのではないかと思う。

 

じゃあ、その自分を理解するのは簡単か?ということになる。「自分ってこんな人間だよな〜」と本当に理解できているのだろうか。いや、簡単に分かるはずがない。それが出来るのなら、この世に蔓延する多くの悩みやトラブルは存在しないだろうし、ましてや数ある選択肢の中から『自死』を選んだり、『人や自分を傷つけて後悔』したりもしないだろう。

 

多くの人が「自分」というものを本当の意味で理解していない。更に言うとコントロールも出来ないのが現実である。

それはもちろん僕自身も含めてなのだが、しかし完璧に出来なかったとしても、「自分を理解していこう、コントロールしていこう!」と、思いながら生きているか否かは重要なことなのだ。

 

前にも言ったかもしれないが、人間の【意識】には「高い」「低い」の他に、「細かい」「粗い」があると思っている。

そしてこれは「人生経験に比例しない」ことも分かってきた。どんなに辛い過去、大変な経験をしていたとしても「そこから何も学んでいなければ」「何も成長していなければ」意識は低いままだし、粗いままなのだ。

 

それは、外向きの矢印「自分→周囲」と、内向きの矢印「自分←自分」のこととも言えよう。

 

一見、意識が高そうな人であっても、自分をコントロール出来ていなかったり、言葉と行動が一致していなかったりすると【意識は高そうだけど低い人】になるだろう。

 

書きながら思ったのだが、こうも言えるのではないだろうか。

 

その人の【成長意欲】が、意識の「高い・低い」に影響し、【それに伴う努力の実利】が「細かい・粗い」に関係するのではないかと。

 

それは、こういう感じのことだ。

 

①【成長意欲がない】▶︎意識が低い

②【成長意欲がある】▶︎意識が高い

③【成長意欲はある】が【努力していない】▶︎結局は意識が低い

④【成長意欲がある】が【それに伴う努力の実利はない】▶︎意識は高いが粗い

⑤【成長意欲があり】更に【努力の実利もある】▶︎意識が高くて細かい

 

こんなことを書くと、「成長意欲が無い人はダメなんですか!?」とクレームが来そうだが、「成長意欲の無い人」は、この話の次元で生きていないので基準に当てはまらない。あくまでも「成長意欲がある人」を基準として考えたら、の話であることを明記しておこう。

 

「自分自身を変えていきたい!」と思う人は、思わない人に比べたら意識が高い人だろう。しかし、努力はしていても【それに伴う実利】がないのであれば【意識は高いが粗い】ということになる。

 

「自分を変えたい!」と強く願うのならば、【意識が高くて細かい】人になっていかなければ成長していかないし、それにはまず【意識】を【高くて細かくなるように努力する】必要があるだろう。

 

でもそれが、ヨガの恩恵そのものであるし、おとぎ話ではなく、必ず行くことのできる境地なのだからヨガはやめられない(笑)

 

成長が確実になされているのであれば、ヨガで必要な「心の安定」は徐々に手に入るだろう。しかし、成長していかないのであれば、いつまで経っても「心の安定」は得られず、欲望の側にコントロールされてしまう。

 

 

 

話が逸れたので「自分探し」の話に戻ろう(笑)

 

要は、こうだ。

 

私たちには、時に、落ち着く時間が必要ということだ。

 

落ち着いて自分を見直す時間が。

 

 

「自分探しの旅」と称して、ただの旅行をする人がいるが、それは「溜まったストレスを発散しているだけ」である。

その旅先で、当の本人は「ストレスが溜まってたんだなぁ」と感傷に浸っているのかもしれないが、「なぜ溜まっていたのか?」までは深く考えずに終わり、結局「自分探し」は完了しない。そして帰宅後の行動も変わらない。

 

なぜ「自分探し」に至らなかったのか。それは、「本当に見つけたい自分」は旅行先に居るのではなく、「落ち着いた心の中」にしか居ないからだ。そこを見ないと「自分探しの旅」どころか「自分忘れの旅」をしているのと同じになってしまう。

 

旅に出るのは良い。しかし、そこには「旅に出たいと思った理由」があって、そして「普段の生活の中で、本来の自分ではない感じや違和感」があったから「旅に出た」というシークエンスがあったハズだ。

 

「自分探し」の旅に出て、「何か」を感じ、帰ってきてからの行動が「変わった」のなら、その旅には意味があったのだろう。しかし、特に何も変わることなく、ただ「よし、また明日から頑張ろう」というだけでは、ストレスを発散してきただけだ。「旅」そのものには気分転換をさせる効能があるが、帰ってきてからの行動や意識が変わる旅が「自分探しの旅」と言えるのではないかと思う。

 

しかし、そもそもの話をすると、①旅に出て、②普段の生活と切り離されることで、③落ち着いた心を取り戻した時に、④初めて本当の自分と向き合える。という「自分探しのシークエンス」は、、、

 

①を「旅に出て」ではなく、「ヨガをして」に変えるだけで、いつでも出来ることになるのだ。

 

結局のところ、「自分探し」は「落ち着いた心」があれば、どこでも出来る。

 

 

もし今の自分に迷っているのであれば、目を閉じて座り、内なる旅を通じて、自問自答の中で、最終的に「純粋な答え」を見つければいい。

 

それはきっと理想の自分ではないから苦しいのだけど、良い自分も悪い自分も出てくるのが本当の「自分探し」の結果なんだと思う。

 

「心に余裕のない時」は自分を見失い、

「心に余裕のある時」は自分を理解できる。

 

「旅」に出たくなる気持ちも分かるのだが、実は今すぐにでも、目を閉じれば出来ることなのだ。

 

場所や環境を変えるのは、正解にならない時もある。

 

「心に余裕がない自分」に気づいた時こそ、「自分を見つめるヨガ」をしてほしい。

 

 

今回も話が長くなったが、

 

 

 

これも僕の思い込みということで(笑)