『お金があれば豊かであるか?』
その答えは『否』である。
(もし「否」を読めない人がいたとしても、僕は優しい笑みで返しましょう。)
多くの人が欲しがる「お金」というやつは、実に厄介な存在だなぁと思うのです。
お金を稼いでる人は凄くて、お金を稼いでいない人はダメだ。という風潮のある世の中。
なんと生きづらい世の中でしょう。
しかし、あなたにもその価値観が備わってしまってはないだろうか。
人を判断する時には、この価値観を持ち出してはいけない。
あくまでも「判断材料」のひとつとするだけだ。
お金がある悪人もいれば、
お金がない聖人もいる。
「お金がない悪人」だったのは過去の僕です。。
(当時、周囲にいた皆さん、すみません)
さて、話を戻そう。
『お金があれば豊かであるか?』
あなたはどう思うだろうか。
「え?お金があれば絶対幸せじゃね?」と言うパリピの人もいるだろう。
いろんな答えがあっていいと思うのだが、
今の僕は、
【お金がある】=【幸せ】
という方程式は、
「直接的には成り立たない」と思うのである。
お金があっても、心が貧しければ意味がない。
死んだら終わりであるからして。
聖典にも、
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「豊かさは金銭的な富とは何の関係もない。」
「最も富める者というのは、冷静沈着で、緊張や不安から自由な心を持つ人である。」
「何の思い煩いもない人生というのは、よく制御された、不安から自由な、私的欲望や私的所有のない心によってはじめて可能なのである。」
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とある。
これらは、インテグラルヨーガ219ページ
◼️ヨーガ・スートラ2章37節
不盗に徹した者のところには、あらゆる富が集まる。
という部分に記載されているが、
ヨーガは、あくまでも
『外界に本当の幸せはない。』
というスタンスをとっている。
しかし、
『外界の世界も存分に楽しんだらいい。』
ともある。
(↑これは「心」の扱い方が分かった人に向けて)
【お金】とは、「付き合い方」が【幸せ】を左右するものだ。
たくさんお金を持っているのが【幸せ】ではない。
このブログを見ているあなたは、
【そこそこのお金を持っている人】か、
【そこそこのお金しか持ってない人】だろう。
僕には分かる。
バレバレである。
なぜ分かるかって?
僕がそうだから。←
その【そこそこのお金】を「どう使うか?」
それが【幸せ】を生むか【苦しむ】かを決める。
自分の「内側」のために使うか、
自分の「外側」のために使うか。
他者のために使うか、
自分のためだけに使うか。
「他者貢献」になるのか、
「自己満足」で終わるのかとも言える。
ヨガの英智を志す人は、自分のお金をどう使うかもコントロールしなければならない。
それがコントロールが出来なくて、
どうしてプラーナのコントロールが出来よう。
そして、もうひとつ。
「自己満足の見極め」が肝心である。
お鍋をしようと買い物に行って、いつもは「香燻(こうくん)」を買っているのに、今日は奮発して「シャウエッセン」にしちゃうぞ!とスーパーを後にした帰り道でニヤニヤするのは「自己完結型の自己満足」
高い服や装飾品を買ったり、エステや美容や脱毛に行ったり、時にはそれが高級腕時計だったり車だったり、人よりも良いものを持ちたい。人に羨ましがられたい。という「自己満足を装った承認欲求」もある。それが「悪い」と言いたいのではない。
人の役に立ちたいから○○をするという行動には、「人に感謝されて自分が満足したい」という気持ちが隠れていたりするものだ。これは「他者貢献と思いたい自己満足」である。しかし相手から感謝されなかったら「せっかくやってあげたのに!」である。そんなものは本当の貢献ではない。
私たちの「心」というものは、こうも巧みに「私自身」を騙している。
だから、世の中には「自分が分からない」人がこれ程にも多いのだ。
自分の心の分析者になろう。
【お金】と【幸せ】には直接的な関係はない。
盲目的に全てを贅沢するのは極端だし、
盲目的に全てを節約するのも極端であろう。
自分の「心」の分析が上手になると、「お金」との付き合い方も上手になる。
自分のお金の使い方を通してヨーガして欲しい。
という僕の思い込み(笑)
↑久しぶり